瞑想を続けていると、多くの人が一度は不思議な壁に出会います。
「もっと深めたい」と思うからこそ、毎日練習を重ねる。
けれど、その「深めたい」という思いそのものが、心を少し力ませてしまうのです。
無心になろうとすると、その思いが執着となって、かえって無心から遠ざかる。
だからといって、最初から何も欲しなければ、そもそも瞑想を続ける意欲も生まれません。
この一見すると矛盾した問いと向き合うことこそ、瞑想の奥深さであり、醍醐味なのかもしれません。


COMPASSION
瞑想も日常もうまくいかない、疲れてしまう。
そんな時、足りないのは慈しみの感覚かもしれません。
瞑想を続けていると、多くの人が一度は不思議な壁に出会います。
「もっと深めたい」と思うからこそ、毎日練習を重ねる。
けれど、その「深めたい」という思いそのものが、心を少し力ませてしまうのです。
無心になろうとすると、その思いが執着となって、かえって無心から遠ざかる。
だからといって、最初から何も欲しなければ、そもそも瞑想を続ける意欲も生まれません。
この一見すると矛盾した問いと向き合うことこそ、瞑想の奥深さであり、醍醐味なのかもしれません。

この矛盾をひも解く鍵のひとつが、自分自身との付き合い方にあります。
私たちは誰しも、自分を大切にしたいという自然な心の働きを持っています。
だからこそ努力し、学び、成長しようとします。
一方で、自分を優先する気持ちが強くなりすぎると、人間関係の悩みや心の緊張につながることもあります。
だからといって、その心をなくせばよいわけではありません。
私たちを前へと動かし、探究へと向かわせているのもまた、その心だからです。
瞑想が持つパラドックスは、この心とどう付き合うかという問いでもあるのです。
自分を優先する心の働きは、決して悪いものではありません。
私たちはそこから学び、成長し、誰かを支えようとします。
瞑想や心の探究もまた、その延長線上にあります。
けれどもし、自分の内側に向いている「大切に感じる心」が、身近な人や動物、植物、そして日々出会うさまざまな存在へと少しずつ広がっていったとしたらどうでしょう。
すると心は、いきいきと目覚めたまま、どこか穏やかでいられるようになります。
力むことなく、活力と大らかさがひとつになっていくのです。

私たちは、この「大切に感じる心」を「慈しみ」と呼んでいます。
自分だけでなく、目の前の人や生きもの、日々出会うさまざまな存在を大切に感じてみること。
すると不思議なことに、瞑想を深めようと頑張らなくても、心は自然と静かになっていきます。
瞑想を深めることや、ストレスから逃れること以上に、目の前の存在を大切に感じることそのものに、大きな価値があったのだと。
そして心が穏やかになることも、瞑想が深まることも、その自然な結果だったのだと気づいていくのです。
私たちは、この慈しみの心を育む方法として、慈しみの瞑想を大切にしています。
自分の幸せを願い、誰かの幸せを願う。
とてもシンプルな練習ですが、その積み重ねは少しずつ心の在り方を変えていきます。
そして気づけば、関心は遠くの誰かや抽象的な理想ではなく、「今、目の前にいる人」へと戻ってきます。
どれほど心が広がったとしても、私たちが実際に触れ、言葉を交わし、大切にできるのは、いつも目の前にある世界だからです。
世界は遠くにあるのではなく、今、ここにあるのですから。
